こんにちは!高野山のふもとで酒蔵を営んでいるあつおです。
今回は紀北地域の歴史、後編について紹介していきます。

かつらぎ町や和歌山県紀北地域のお酒のことを知らない方はこちらの記事を先に読んでみてください。

江戸時代のお酒造り

僧坊酒が栄華を極め、戦国時代による流通網の発展により地酒が流行り始めた江戸時代。
灘五郷や伊丹酒によってお酒が関西から江戸へ送られる一方で紀北地域では川上酒が誕生します。
「治水の神様」と呼ばれた大畑才蔵により紀州の酒どころへと変貌していった紀北地域の酒造りが始まります。

江戸時代の時代背景

戦国時代が終わり、江戸時代になると僧坊酒に代わる伊丹酒が台頭してきます。
特徴としては現在の清酒のような澄んだ透明のお酒で大量かつ効率的に造られました。
それにより、一般庶民にも手が届くようになり評判を呼び大阪から江戸へ大量に運ばれるようになります。
一方で江戸時代に入ると徳川幕府による酒造株(しゅぞうかぶ)と呼ばれるお酒を造る免許制度が設けられるようになります。
この酒造株制度が紀北の酒造りの発展に関わってきます。

紀州徳川家と治水工事

戦国時代が終わり、江戸時代になると紀州(和歌山県)は徳川家の領地になります。
以降、紀州は徳川御三家の紀州徳川家(紀州藩)と呼ばれ様々な改革が行われていきます。
その中の一つに紀北地域全域に広がる灌漑水路(かんがいすいろ)、小田井用水が開発されることとなります。

川の水で田畑を潤す!小田井用水とは

小田井用水の詳しい内容は下記の記事をご覧ください。

和歌山の一大事業「小田井用水」と川上酒のつながりについて解説

徳川為頼、吉宗と受け継がれた開発により小田井が完成し紀北地域では今まで以上にお米が採れるようになります。
お米の収穫量が増えたことにより、いくつかの条件を満たした市民に酒造株が発行され紀北地域でのお酒造りが始まります。
これが後の川上酒の誕生です。

川上酒(かわかみさけ)の誕生

酒造株を得た商人や農家は小田井から田畑に流れる小川に許可を得て水車を設置していきます。
何故かというとこの当時の精米(ぬかなどを取り白米にする作業)は水車を使っておこなっていたからです。
そうして、大量のお米を水車で精米することにより品質のよいお酒が多く造れるようになり、これを紀州藩は評価し川上酒(かわかみさけ)と呼び紀州藩や江戸へ送られるようになります。

江戸時代後期と明治時代

隆盛を誇った伊丹酒は次第に現在の酒どころである灘五郷(なだごごう)へ移っていきます。
陸路で馬を使った伊丹酒と対象に灘五郷では海に近いことから船をつかった輸送を行い、お酒以外にも様々なもの運ぶ廻船(かいせん)も発達していきました。
また、明治時代になると酒税の強化と酒造株の廃止、造石税(ぞうこくぜい)という新しい制度が設けられます。
紀北地域も明治政府の税制や紀州藩の解体、地方の酒造りの活性化などにより売り上げが減少していきます。

川上酒の全盛期

灘を中心とした廻船によるお酒の輸送は紀州にも影響を及ぼします。
当時、廻船では油にお酒、木綿、醤油、紙などが関西から江戸に送られました。
紀州も同様にお酒、木綿、醤油などに加え木材、みかんなど紀州の産物を送ります。
この流れは当時より多くのお酒を製造していた和歌山市内に続き、川上酒も多く運ばれました。
また、江戸に加え、大阪、和歌山市内、高野山と様々な場所にお酒を輸送します。
そのおかげで県内で2,3番目の生産量を誇り紀州のお酒の生産量を支えました。

紀州徳川家にも認知された川上酒

川上酒がいつから呼ばれるようになったのか?
当時の資料が残っていない、または作られていないことにより現在も解っていません。
一番初めに話されたのは00年の00の時です。
また、江戸時代に書かれた紀伊続風土記(きいぞくふうどき)や紀伊名所図会(きいめいしょずかい)にも当時の川上酒の名前がでてきます。
より、知りたい方は下の記事もご覧ください。

書物から読み解く和歌山県のお酒

高野山から江戸へ全国に運ばれた川上酒

では、実際にどこにお酒が運ばれたのか。
現在は閉館してしまったかつらぎ町にあった川上酒かつらぎ文化伝承館には高野山から和歌山市内、大阪から江戸へ運ばれたという資料が残っています。
当時より、参拝地として有名であった高野山はもちろんのこと紀州徳川家のある和歌山市内には多くの人が住み、大阪も堺などの地域の発展により栄えていました。
そして、徳川家のつながりもあり、江戸に多くのお酒が運ばれ、川上酒の品質の高さから人気を博したとも語られています。

明治の酒造りと川上酒の衰退

江戸時代がおわり、明治時代になると全国で多くのお酒が造られるようになり、和歌山を含めた近畿圏のお酒の生産量は減少します。
また、藩の解体により和歌山県の経済が減少しお酒の消費、生産量が減っていきました。
明治が過ぎ、大正、昭和と時代が移り行く中で当時は33軒あった酒蔵も5軒、3軒、1軒となくなっていきました。

まとめ

今回は江戸時代から明治時代に栄えた川上酒について紹介していきました。
江戸時代に生まれた川上酒は県内で高く評価され紀北地域は県でも有数の産地として認識されるようになります。
その後、時代の波に飲まれた川上酒は残り1軒となりましたが現在も和歌山県庁にかつらぎ町の応援により知られるようになりました。

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