こんにちは!高野山のふもとで酒蔵を営んでいるあつおです。
今回は紀北(和歌山県北東部)で川上酒を造った酒造家集団「伊都酒造中(いとしゅぞうなか)」について紹介していきます。

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酒造中とは?江戸時代以前から始まる組合制度

組合(くみあい)
共通の目的のために何人かが寄り合って仲間を作ること。また、その人々。組。

デジタル大辞和泉「組合」の解説より引用 コトバンク

和歌山県の北東部に位置する紀北地域の酒造りは江戸時代より始まりました。
その時には約30名ほどの酒造家が産まれ、酒造家をまとめるために紀州藩は酒造中(しゅぞうなか)という組合のようなものをつくるように指示。
それから、紀中、紀南と他の地域と同様に紀北は伊都(いと)、那賀(なが)の2つの地域で酒造中がつくられます。
その後、天保9年に伊都に上那賀の一部が合併し、伊都酒造中として運営されました。

松尾大社に灯篭が!?伊都酒造中の貢献

伊都酒造中は川上酒と共に誕生します。
最盛期では1,6310石。現在の数量に直すと〇〇リットルのお酒をこの地域で製造しており、和歌山県で2番目の生産量を誇りました。
また、天明6年(1786)では1,076石、天保6年(1835)では1,6310石と50年ほどで62%の成長を遂げます。
川上酒の人気が上がるように酒造家が増えていき、20から30人、最盛期では33名の酒造家が軒を連ねてお酒造りを励みました。
また、藩内以外にも販売先を増やしたいということで、大和、江戸、高野山への販路開拓も精力的に行います。
このように繫栄したことを表す話として酒の神様と呼ばれる松尾大社への常夜灯(じょうやとう)の献上と松尾講(まつおこう)があります。

常夜灯と松尾講

京都の松尾大社は酒の神様として有名で全国の酒造家が参拝に訪れます。
そのため、大社には数多くの献上品が酒造家から贈られました。
伊都酒造中もその一団体で一対の常夜灯を献上しました。
常夜灯には「天保九戊戌(つちのえいぬ)年8月吉日」と刻まれており、31名の名前が記されています。

また、安政5年(1858)に作成された資料には12名の酒造家が集まり松尾講ができていた。
講(こう)とは行事や会合のことで松尾大社を援助する集まりで、木下家(現在の初桜酒造)が講元となり集金や会合を開き安政5年には松尾参りも行っていました。

明治期から組合へ 現在も続く酒造家の活動

販路開拓

天保、安政と発展を遂げた伊都酒造中は更なる売り上げを求めて、藩外の販売経路を模索していきます。
ここではこの地域でも有数の酒造家である木下家の販路拡大を紹介していきます。
まず、始めに大阪へ、次に高野山と大和(奈良県)で大和では少量の販売が認められました。
この後も瀬戸内(せとうち)への販売を許可され、上手くいくと他の酒造家も願いが出されるようになります。
このように江戸や藩内だけでなく近畿から中国、四国と販路を広げていきました。

明治期の組合令

このように江戸時代は紀州藩の加護を得て伊都酒造中は発展していきました。
しかし、明治時代になると新政府の樹立と廃藩置県(はいはんちけん)などの制度変更が行われるようになります。
酒造に関しても醸造税や造石税制などの制度ができ、酒造中という酒造家の活動も組合に代わっていきます。
伊都酒造中は伊都酒造組合という名に代わり現在も紀北地域のお酒造りに関する活動と和歌山県酒造組合への取り組みも続けられています。

まとめ

江戸時代より始まった酒造家の集まり、酒造中。
紀北地域も伊都、伊那の地域が加わり分裂を繰り返し伊都酒造組合として活動を続けています。
現在も木下家の酒蔵を継いだ初桜酒造がこの伊都酒造組合に所属し、川上酒の伝統を守りながら活動しています。

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